Piano Technique

ピアノ奏法の技術移転(1)

井上 建夫 より引用します




1 古いシュツットガルトのメソッド

アンドー・ハーサニーはシーア・クロンボーグのような生徒を持ったことがなかった。
彼女以上に知的に優れた生徒は一人もいなかったし、同時にこんなに無知な生徒もいなかった。

初めてのレッスンでシーアが彼の前に坐ったとき、彼女はベートーヴェンの作品もショパンの曲も聴いたことがなかった。
おぼろげながらその名前くらいは知ってはいたけれども。

ハーサニーにはシーアが、すばやくそして知的に楽譜が読め、確実で力強い手を持った生徒であることが判ったし、
豊かな天分があると感じていた。

しかし彼女はどの方向に向かったらいいのか分かっていなかったし、
情熱はまだ目覚める前だった。

彼女は古いシュツットガルトのメソッドで教えられていた。

堅い背筋に堅い肘、極端に型どおりの手のポジション。
練習に関して彼女の最も良い点は、並外れての勤勉さを発達させていたことである。



これはアメリカの小説家ウィラ・キャザーの2番目の長編小説 「ひばりの歌」 の一節です。

1913年から15年にかけて執筆され、1915年に出版されたものですが、物語の時は、それより少し前の19世紀末と設定されています。

コロラド州の田舎町で育った少女シーア・クロンボーグがオペラ歌手として成功するまでを描いたもので、
シーアはこの町に流れて来た飲んだくれのドイツ人にピアノを習いますが、

周囲の人たちの支援を受けて、シカゴ第一のコンサートピアニスト、ハンガリー人のアンドー・ハーサニーにつくことになります。

これは、アンドー・ハーサニーのもとでレッスンを始めた頃の描写です。
作者のキャザーは熱心なオペラ・ファンだったようですが、上の短い引用からでも音楽に関する知識は相当なものだったことが判ります。


さて、ここに 「古いシュツットガルトのメソッド」 という言葉が出てきます。

ここの記述から判ることは、このアメリカ小説の執筆当時、既にこのメソッドが古いものだと考えられていたこと、
そして、ハーサニーのような一流のピアニストはこのメソッドとは違った演奏法をしていたらしいことです。



「シュツットガルトのメソッド」 については、
レジナルド・R・ゲーリッグの 「大ピアニストたちとその技術」 という本のなかに解説が見つかります。

この本は、チェンバロ時代から現代に至るまで、各時代の理論書を豊富に引用しながらピアノ奏法の理論の歴史をたどったものです。
以下、拙文の歴史的な部分の多くは、この本に頼りながら進めていくこととします。

19世紀の半ばまでに、ヨーロッパの音楽学校の多く、特にドイツの場合は、シュツットガルトのレーベルト・シュタルク派に倣って
硬直した腕による打楽器的な保守的テクニックを教えていた。

この時代、あれほどまで多くの教師が、なぜ、このシステムが身体や音楽にもたらす害悪に目をつむり、
リストやルービンシュタインの自由で奔放な演奏、あるいはクララ・シューマンの演奏に見られた、腕による微妙な圧迫による
タッチの影響をほとんど受けなかったのか、理解することが困難だ。

しかし、考えてみれば、チャールズ・J・ハーク(Charles J. Haake)が指摘するように明らかな理由があるのだ。

………打楽器的なタッチは、圧迫によるタッチの演奏といった漠然としたものより、その内容と形式が明確なのだ。
そしてメソッドというものは、きっぱりと断言され推奨されてはじめて発展していく。


それにこのタッチは応用が簡単なのだ。6度やオクターヴのように、より力が必要なときは、手首を蝶番として手を動かせる、
華麗なブラヴーラの効果を求めるときは肘が蝶番になる。

これで、腕を肘まで使う完全な蝶番メソッドを得ることができるが、良いテクニックの基礎には自由な動きの腕が必要であることが
理解されることはないのだ。

このシステムが音楽学校レベルで確立されると、これがビジネスとしての発展の前提になり、それ自身で存続し始める。

プラハでトマシェックとディオニス・ヴェーバーに学んだジギスムント・レーベルト(1822‐1884)と、
ミュンヘンで学んだルードヴィッヒ・シュタルク(1831‐1884)はともにドイツ人で

1850年代半ばのシュツットガルト王立音楽院の主要な創設者である。

この音楽院は何年かの発展過程を経て、1865年にその公式名称を掲げることになる。

レーベルトとシュタルクの4巻からなる「大ピアノ教程(Grosse Klavierschule)」が初めて出版されたのは1856年だった。

世紀の替わり目頃には、シュツットガルトのメソッドに代表されるような手や腕の柔軟性を無視した打楽器的な打鍵法が
ピアノ教育の世界を席捲していた
ことは、キャザーのフィクションの記述だけでなく、

アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)のような実在の大ピアニストが受けた教育でも例証されます。


【アルトゥール・シュナーベル】


マダム・エシポフは私に大変親切だった。私は練習曲を弾かされたが、主にツェルニーだったと記憶している。
彼女は私の手にコインを載せて、それもドルの銀貨のような大きな銀貨(1グルデン貨)で、それを落とさずに
ツェルニーの練習曲を1曲弾きとおせたら、それを私にくれたものだ。これは彼女の親切からだったと思う。

その後、私はピアノの弾き方を大きく変えたので、今では数個の音を弾くだけでコインは落ちてしまうだろう。
‘静止した(スタティックな)’手で弾くテクニックは、音楽の表現のためには薦められるものではないと思う。
幼い初心者なら、一時的にはこのメソッドしかないかも知れないが。

…………………………………………

私は指による演奏を信じていない。指は馬の脚のようなものだ。体が動かなかったら、前に進まない。
同じところに留まっているだけだ。…………指はハンマーとして使われるものではない。
そうしようとすれば、あまりにも多くの訓練と注意力が必要になる。音に差異をつけるのが非常に難しく、確実性に欠ける。
静止した(スタティックな)体勢から重みを落とすのは、非音楽的な光景だ。

柔軟性、リラクゼーション、自発的な動きが、表現豊かな音楽的な演奏に必要な様々な動きを統合していき、
固定した身体による演奏よりも、より少ない努力で、より良い結果を約束する。表現とは、外へ出て行くこと、
上に上昇するという意味だ。表現がピアニストの目的なら、内への動き、下への動き、重みを落下させることは、
自分で自分の前に障害物を置くようなものだ。ピアノのレガートを否定し、打楽器に分類する一派がいることは
私も知っている。ピアノのために作曲された作品群が、この「科学的」と称する主張に対する最良の反証だ。

……………………………………

その頃以来、楽譜を見たことはないが、私はツェルニーの練習曲は今でも弾けるだろう。
しかし、もし当時のように、手を規則通りにして弾こうとすれば、大変不安を感じてしまうだろう。

私の弾き方で弾くとすれば、それは常にリラックスしたもの、円弧の動きによる、メリハリのあるものだ。
そして、私は、身体は音楽に応じたメリハリのある動きがなくてはならないと思っている。

音楽は波動だ。身体が波動していなければ、我々の手が規則で縛られていたら、弾くことはずっと難しくなる。
これが、例のテクニックでは、あんなにも多くの練習が要求される理由だ。1日10時間もね。




シュナーベルがレシェティツキーのもとで、その妻アネッテ・エシポフについたのは1891年頃でしょう。

しかし、彼は自ら語っているように、「ピアノの弾き方を大きく変えて」、指の動きを主体にしたテクニックからすぐ離れていきます。
(神童であったシュナーベルですから、むしろ、教えられたことを受け入れなかったということかもしれません)



レッスンの場でのこうした状況は、20世紀の始め頃もあまり変わっていないようです。

日本の状況については、野村光一の興味深い回想があります。


野村光一】


ショルツ(Paul Scholz)さんはベルリンの高等音楽院を卒業された人で、バルトという人の弟子だったと思う。
バルトは小倉末子さんもついていたんだけど、ショルツはとっても優秀な学生であったそうだ。

ちょうど、その時に東京音楽学校からピアノの先生を招聘したいという話があって、
ショルツは卒業と同時に二十四才くらいで日本にやって来たんだよ。(1913年)

本当はバルトを呼びたかったんだけど、その代わりかもしれないね。
だけど二十四才じゃテクニックはいいだろうけど、音楽的には発育し切っていないよ。

それに当時のドイツのピアノのテクニックは古くて悪かったんだ。

ヨーロッパでピアノのテクニックが良くなったのは第一次大戦後だから、ショルツ
古いテクニックの秀才だったわけだね。

ドイツ人だからベートーヴェンやブラームスはいいとしても、それ以外は駄目なんだ。

しかもヨーロッパから離れちゃったものだから、ショルツの音楽性は二十四才で止まっちゃったことになって、
それで教えたものだから、当時の日本の学生のテクニックはみんな古いガチガチしたものになって、

ただピアノを叩くだけになっちゃった。

その第一の弟子が高折宮次さんだけれども、それでも、日本ではじめてベートーヴェンだけの独奏会をやったのも
高折さんだし、それで音楽学校の先生にもなったわけだ。

それが、結局は東京音楽学校の主流になって、彼のところへ優秀な学生がみんな集まっちゃった
その一人が井口基成でね、ということはショルツの直系ということになる。

それでね、第一次大戦後、日本にはドイツの新しい風潮が入ってくる、
フランスからも入ってくるということで、教育方針なんかが変わってくるんだよ。

だけど習い覚えた腕というのはそう簡単には変わらない。

大戦後に高折さんはベルリンへ留学されたんだけど、その時はもうホッホシューレの教授陣は
新しい風潮を持った人に変わってるんだ。第一線にいたのがシュナーベルとクロイツァーなんだ。

高折さんの古い奏法とは全く反対の方向なんだけど、自分はもう直らない、これでは駄目だということが分かった。

そこでどうするか、ということになって、日本へ帰ってきてから是非クロイツァーを呼ぼうとされたんだけど、
当時クロイツァーはドイツ最高の演奏家であり教師の一人だったからね、日本なんかへは来ない。

でその代わりに、クロイツァーの推薦でその直系のコハンスキーが日本へ来たわけだ。


なぜ、シュツットガルトのメソッドのような弾き方が広まっていったかについて、
ゲーリッグは次のように歴史的に説明しています。

ハープシコード、クラヴィコード、初期のピアノの時代における大演奏家や教師たちは、
指のテクニックに限定することを好んでおり、腕と体は最少しか使わないようにしていた。


軽いアクションで音量も限られていた昔の楽器でなら、これが望ましいことであり必要なことでもあった。
すべての指がそれぞれ独立して動くことは、音楽と楽器の両方が求めることに大いに合致していた。

それでも、自由であること、柔軟であること、滑らかであることには価値が置かれていた。
クープランやラモー、J.S.バッハとその息子カール・フィリップ・エマヌエル、モーツァルト、そして
フンメルやツェルニーでさえも、必要な場合は控え目で自然なかたちで腕を使うことが正しいと
考えていたことに疑いを差し挟む余地はない。

19世紀始めにピアノは徐々にそのパワーを増し、それに応じてタッチも重くなってきたので、
それに応じた新たなことが求められてきたにもかかわらず、

不幸なことに、これに合致するようなテクニックが進化しなかった。

ベートーヴェン、ショパン、メンデルスゾーン、リスト、アントン・ルービンシュタイン、
それにクララ・シューマンのような人も、鍵盤を扱う生まれながらの能力でもって、本能的に時代とともに進み、
進歩的なピアノテクニックの最初の例となった。

しかし、バロックと初期古典派時代からの正統派グループであるフィンガー・テクニック派の後継者たちの多くは、
新しいテクニックに抵抗していた。

彼らは19世紀が進むにつれ、ますます、ベートーヴェンの言う「フィンガー・ダンス」に凝り固まっていった。


彼らは、フンメル、カルクブレンナー、ツェルニーとその仲間たちのテクニックのシステムを糧にしていて、
ある程度までなら長所となる点もなくはなかったが、

ハイフィンガー、固定した関節、音楽的表現においては
表面的な表情にとどまるといった特徴を広めることとなった。効果的に様々な筋肉を働かせることはほとんど顧慮されなかった。

C.P.E.バッハの有名な「正しいクラヴィーア奏法」を、現在のピアノ奏法の解説書あるいは理論書と思って読むと、
全くあてがはずれます。

後半がもっぱら通奏低音の演奏法に充てられているのはともかくとして、前半は装飾音の弾きかたばかりです。

チェンバロやクラヴィコード時代における演奏者の表現とは、楽譜に書かれた、あるいは書かれていない装飾音を
どんな風に弾くかということが、第一のことだったのです。

「軽いアクションで音量も限られていた昔の楽器」で、いくら強弱をつけたところで、その表現能力は限られていました。
演奏者は装飾音で勝負していたのであり、装飾音には指のテクニックが重要でした。

これに対して近代のピアノは、響きも豊かになり、音量の微妙なニュアンスが出せるようになっています。

クレッシェンドやディミヌエンド、スフォルツァンドやスビト・ピアノなど、ダイナミックな表現が可能になりました。

和音を弾けば、構成する音の音量を加減することによって、色彩感あふれる音色を表現できます。
こうしたダイナミズムと音色の表現は指先だけでは不可能です。

チェンバロを弾いてみると気がつきますが、弱く弾きすぎると、ある抵抗に出会って音を出すことができません。

チェンバロは弦をジャックで引っ掻いて音を出すので、少なくとも弦を引っ掻くだけの強さが必要です。
つまり、チェンバロを弾くには一定以上の力が必要ですが、それを大きく超える力を出す必要はありません。

ピアノの場合は、最弱音から最強音まで弾き方に応じた音が出せます。

ピアノの最弱音は指の力だけでも弾けますが、コントロールは困難です。

最強音は指の力だけでは出せません。また、和音を構成する音の強さをコントロールすることも指の力だけでは困難です。
手や腕、肩からの柔軟な動きでもって、音の強さをコントロールすることになります。

19世紀の始めにショパンやリストが実現したのはこういうことでしたが、
レッスンの場では、ますます近代のピアノ本来の弾き方とは異なる旧来の弾き方の方
が大勢を占めるようになってしまいました。

多分、これはピアノの教育が芸術家たちとは全く別の場で行われるようになったからだと思われます。

19世紀を通じてピアノを弾きたいという人たちは市民階級を中心に増え続けてきました。
しかし、芸術的表現ができるテクニックを持ったピアニストはごく限られています。

ピアノを弾きたいという人たちの需要を満たすために、芸術的表現と言うには程遠いテクニックの人たちも
先生として参入することになったのです。

ここで登場するのが練習曲集やメソッドです。

ツェルニーをはじめとする練習曲集は、ピアノを習う生徒のためではなく、先生のためのものでした。

こうした練習曲集を順番に与えておけば、ピアノを満足に弾けない先生も何とかレッスンを続けることができました。

また、ゲーリッグが引用している文章にあるように、メソッドは単純明解なものが必要でした。

指によるテクニック、すなわちすべての指の均等性とか指の独立性といったことは、先生も生徒も信じやすい理論でした。
生徒ができないのなら、それは練習が不足しているか、才能がないかのどちらかにされました。


世紀の替わり目の頃には、エシポフのようなピアニストとしても有名な人が、神童シュナーベルに、
全く見当はずれのテクニックを教えていました。

教育の場で広まった間違ったテクニックが、芸術の場にまで広がってきていました。
ここまでくれば、転換が起こるのは必然でした。
Piano Technique ピアノ奏法の技術移転(1)

井上 建夫 より引用