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日本のピアノ史

バッハの死から20年後にベートーベン(1770-1827)が生まれます。
そして、ベートーベンの晩年(50代)が、リスト(1811〜1886)の少年期に当たり、そのリストの晩年(69歳)に、ようやく日本のピアノ史が始まります(1880)。
当時の日本は鎖国明け。文明開化が始まったばかりでした。
| 年号 |
日本 |
世界 |
1823
(文政6) |
シーボルト(長崎出島オランダ商館付き医官)が日本にRolf & Sonsのスクエア・ピアノを持ち込む。 |
ブラジル、独立を宣言(1822)
12歳のリスト、ベートーヴェンの前で演奏。(ウィーン)
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1868
(M元) |
明治維新・文明開化
産業革命以後のヨーロッパ文明を輸入 |
バイエル『ピアノ奏法入門書』(1844頃)
モスクワ音楽院設立(1866) |
1875
(M8) |
伊沢修二、ボストンのブリッジウォーター師範学校へ。 |
チャイコフスキーピアノコンチェルト第1番(1874) |
1879
(M12) |
音楽取調掛(現在の東京芸術大学音楽学部)設立 |
エジソン蓄音機発明(1877) |
1880
(M13) |
ルーサー・ホワイティング・メーソン、音楽取調掛、初代教師として招聘される |
スタインウエイ ハンブルグ工場建設 |
東京芸大設立の解説 (1875〜1880)
日本のピアノの始まりは、明治政府が送り出した、一人の青年にありました。
明治維新の中で、積極的に西洋文化を取り入れて、近代国家を目指していた日本は、海外の教育システム研究のために、明治8年(1875)に、文部省の伊沢修二氏を、ボストンのブリッジウォーター師範学校へ送り届けました。
伊沢氏は、大学南校(東大の前身)を卒業した優秀な青年だったものの、ボストンでは、他の勉強はできるのに、ただ一つ、苦手なものがありました。
それが音楽でした。
日本古来の雅楽や能楽、三味線楽のメロディーは、黒鍵だけで弾けるような、5音音階。それに対し、西洋のメロディーは、ドレミファソラシの7音音階。
育った音楽環境の違いから、7音音階になじめなかったのもあるのでしょう。
学長からは、
「君は東洋人だから西洋音楽は難しいね。音楽は免除してあげよう」
と同情されました。しかし、国から派遣されていた伊沢氏は、楽譜も読めず、歌も歌えない自分を、祖国に申し訳ないと思っていました。
その頃、同じくボストン留学中の三岡丈夫氏が、伊沢氏に言いました。
「この前、変なアメリカ人に会ってね、その人が、ぜひ日本人に音楽や唱歌を教えたい、オレのところに習いに来いって言うんだ。でもオレは、工学を学びに来ているから、音楽に用はないんだよな。そういやお前、音楽でかなり苦労してるって聞くな。一度、彼に会ってみたらどうだ?」
伊沢氏は、音楽ができない自分を、なんとかしたいと思っていたから、ぜひ会いたいと言いました。
そして、三岡氏に紹介されたのが、音楽教師のメーソン氏。1876年のことです。
メーソン氏は、ドレミから、熱心に音楽を教えてくれました。
伊沢氏は感激し、留学生監督の、目賀田種太郎氏とともに、毎週土日、メーソン氏の家に訪れ、音楽と唱歌を教えてもらいました。
そして、西洋音楽の素晴らしさを、肌で感じた伊沢氏は、
これはぜひ、この音楽を日本化して、日本人にも分かるような形で広めたい!
と、祖国の文部省に、音楽教育の重要性を訴えました。
そして、彼の訴えが認められ、帰国後の明治12年、日本初の音楽教育機関「音楽取調掛」(現在の東京芸術大学音楽学部)が設立されました。
その目的は……。
一、東西二洋ノ音楽ヲ折衷シテ 新曲ヲ作ル事。
二、将来国楽ヲ興スベキ人物ヲ 養成スル事。
三、諸学校ニ 音楽ヲ実施スル事。
「西洋の音楽をそのまま受け入れるのではなく、日本人に合う、新しい音楽を作ること。そのためには専門的な音楽家の育成の場と、公立学校の音楽教育のシステム作りが必要」となります。
そして、公立学校の音楽教育システムを作るには、将来学校で音楽を教える、先生への教育と、音楽の授業で扱うための、学校用の唱歌作りが急務となります。また、日本人に音楽を教えてくれる、外国人教師の招へいも……。
音楽取調掛の初代責任者となった伊沢氏は、1879年、アメリカのメーソン氏に、
「こっちへ来て、日本人に音楽を教えてくれよ!」
と頼みました。
メーソン氏は、目賀田氏が差し出した二年間の講師契約にサインし、ピアノ十一台とともに、1880年3月、「文部省音楽取調掛」の初代音楽教師として来日すると、在任二年間で、『小学唱歌集』、『唱歌掛図』の発行や、初等音楽教育システムの公立学校への導入など、日本の音楽教育へ、大きな貢献をはたしました。
原文 (本人の手紙より)
其頃幸に友人由利子爵の子息に三岡丈夫と云ふ人があり、矢張同じく米國に留学してボストン府に居られたが、自分が同府に赴いて同氏に面會したところ、三岡氏が云ふには、近頃奇怪な米人に邂逅したが、同人は是非日本人に音樂や唱歌を教えてやりたいと言ひ、頻りに僕に習ひに来い々と勧めるけれども、僕は「エンジニー」工學を學んで居るのだから、音樂などは用がないのであると云はれたが、丁度自分が音樂の事で、大に苦心して居るといふことを聞き、一つ同人に教はつては如何と、話されたものだから、自分は丁度好い時節であつたから、三岡氏に連れられて、其米人を訪問することゝなつたが、其人は即ち音樂家メーソンと云う人であつた、これからメーソンの懇切なる世話で、毎週土曜からメーソンの家に赴き、其夜一心に音樂と唱歌とを教へて貰ひ、翌日曜には同人の紹介にて、各種の學校を参観し、其夜も同家に一泊し翌月曜の朝、再び唱歌の稽古を為して、後旅館に歸ることになり、自分は深くメーソンの厚意に感じ、大に奮發して稽古したのであるが、やがて日本の言葉をつけて、唱歌をやることにし、『蝶々蝶々菜の葉に止まれ』の唱歌の音譜は、實は當時メーソンの宅にて作つたものである。
「予が關係したる創業教育」 (本人の手紙より)
此頃余が留學中の友人に三岡丈夫と云う人あり、一日ボストン府に行き圖らずも三岡氏に遇ひけるに、同氏の言に、余は過ぐる日偶然途上にて物好きなる米人にあへり、彼レ先ツ余に日本人なるや、支那人なりやと問ふ、余日本人なりと答へしに、されば我家に来るべしとて其家に伴ひ行き、余に唱歌を教へんと試みけり、余もあまりの事の意外なるに驚き、何故ぞと問ひければ、彼は是非とも日本人に唱歌を習はせ、日本國に音樂を導き入れたみためならば、その望に應ぜらたしといへり、されど余の目的は工學の修業にあればとて、終、斷はれりと語る、余は此言を聞き世にも有り難き仕合のあるものかな、我こそ彼の人に就きて聴こえぬ耳をも開き、歌へぬ聲をも發してんと、直チに三岡氏に紹介を請ひてメーソン氏の家に到り、こゝに余が意中を打ちあけて告げゝれば、君の喜大方ならず、應答終る否や忽チド、レ、ミ、ファ、の教授に取掛られたりき、爾後毎週土曜日午後の同氏の宅に到るこゝし、その度毎に夕食を振舞はれ、それより唱歌の教授をうけ、翌朝また朝食を振舞はれ、後處々の音樂校書籍館等に伴はれ、有名なる人々に逢い有益なる談話を聞き、午後よりは十數里隔たるブリッヂウォートルの師範學校に歸り来るを例とせり、かくて追々耳も聞こえ、聲も出で来りければ、少しにても出来得るだけ彼音樂を日本化して、我に利用するの途を開くべしとして、彼是打開け相談して、ド、レ、ミ、ファに代ふるに、ヒ、フ、ミ、ヨを以てライトリーロウ、ライトリーロウに代ふるにチョーチョ、チョーチョを以てするなど今日、我國の學校唱歌發達の仁子ともいふべきものは、早くもメーソン氏が家隅の一室中に成立てるなりけり。
伊沢 修二
嘉永4(1851)年6月29日、信州生まれ。
明治3年、高遠藩賃進生に選ばれ大学南校に入学。8年には、愛知師範 学校長となる。同年アメリカへ留学し、マサチューセッツ州ブリッジオートル師範
学校に入学。
明治10年7月卒業後ハーバード大で理学諸科を学び、この間、個人的にメーソン教師に音楽を師事。11年4月、
「学校唱歌に用ふべき音楽取調べの
事業に着手すべき見込書」
を目加田種太郎(当時の留学生監督官)との連名で提出。
明治13年、 アメリカよりメーソンを教師として迎え入れ音楽取調事業に着手、10月には
伝習生を入学させた。14年同掛々長となり唱歌教材や音楽入門書の作成を指導するなど、我が国音楽教育の基礎づくりに尽力した。
(参考「日本芸能人名辞典」(三省堂))
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