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重厚長大へと進むピアノ

初期のピアノは、構造材がすべて木製(鋼鉄フレームがない)でした。そして、弦が弱く、響板の反応も早かったため、チェンバロのように軽いタッチで弾くことができました。
しかし、鍵盤の軽いドイツ式ピアノより、鍵盤が重いイギリス式のピアノが浸透し始める頃から、ピアノは「チェンバロの改良形」の枠を超え、足で踏むペダルの導入、鋼鉄線の弦、鋼鉄フレームの採用、ダブルエスケープメントアクション、交差弦、フェルトハンマーなど、独自の楽器として発展していきます。
またこの頃から、作曲家も、ピアノという楽器の面白さにアイデアを刺激され、より技巧的な曲、表現の豊かな曲を書くようになりました。美しいタッチ、素早く複雑なパッセージ、ペダル表現や両手の和音など、演奏者にも表現力とそれを支える演奏技術を要求するようになってきたのです。
ハノンやツェルニーなど、指のための「練習曲」が出版されだすのも、この頃からです。
『ショパン・リスト』とピアノのかかわり
ベートーベンの晩年は、ショパンやリストの少年時代と重なります。 そしてこの二人が、その後のピアノの方向性を決定付けます。
1.ショパン(1810〜1849)とピアノ
ショパンは「ピアノの詩人」と呼ばれていました。 14歳の時にはすでにポーランドを代表するピアニストとして高い評価を得ており、18歳には国外でも演奏旅行を行い、22歳のパリデビューは大成功をおさめましたが、彼のピアノは音のニュアンスを大切にしたため、音が小さくデリケートで、コンサートホールのような広い所には向かなかったようです。そのため、彼はサロンでの演奏を好み、1835年以降は作曲にウエイトをおくようになりました。
彼がパリに移り住んだ当初に使っていたのは、エラールのピアノでしたが、友人のカミュ・プレイエル(プレイエル創業者イグナース・ジョセフ・プレイエルの息子)にプレイエルピアノを譲り受けて以来、このピアノをとても気に入り、生涯にわたってプレイエルピアノを愛し続けました。 プレイエルのピアノは、タッチも軽く、銀色の輝きをもった音色だったので、深い詩情を表現しやすいのが特徴でした。
作曲家は、自分の好むメーカーのピアノの音をイメージしながら、譜面に指示を書き込みます。 ショパンが作曲に使ったのは、プレイエルのピアノでした。他のメーカーのピアノは、音が派手すぎて自分の演奏には向かないと考えていたそうですから、ショパンの演奏上の指示記号などは、当時のプレイエルピアノを想定して読み取る必要があります。
「私は気分のすぐれない時には音がすでに完成されているように思われるエラールのピアノを一番好んで弾くが、体調が良くて自分の音を創り出す力が充分にある時はプレイエルのピアノを弾く」 (ショパンの発言)
ちなみに、その後のプレイエルは、フランスのラモー社(1971創業)によってPLEYELの商標権が買われ、現在ラモー社(プレイエル社)がプレイエルピアノの生産を行っているそうです。したがって、当時のプレイエルとは違う音なのだそうです。
2.リスト(1811〜1886)とピアノ
リストは激しい動作でピアノを鳴らす、超絶技巧のピアニストだったため「ピアノの魔術師」と呼ばれていました。 7歳より父アーダムにピアノの手ほどきを受けると、驚くほどの神童ぶりを見せ、1年後には、バーデン、アイゼンシュタット、ショプロンで演奏会を開き、モーツアルトの再来と、名声が高まります。 10歳でウイーンに移住し、ツェルニー、サリエリに師事。15歳でライハに師事。そして21歳、同時代に活躍した、伝説のバイオリニスト、ニコロ・パガニーニの技巧的演奏に感銘を受け、超絶技巧の派手なピアニストとして、後に伝説となる活動を始めます。
彼は端正な顔立ち、超絶技巧の実力だけでなく、演奏の途中で楽譜を投げ捨て、そのまま暗譜で弾きとおすといった聴衆を沸かすパフォーマンスも得意だったため、ヨーロッパ中に熱狂の渦を巻き起こし、史上最高の人気を得たコンサートピアニストでした。
ちなみに、リスト以前のピアニストは、ソロではなく、何人かの音楽家でジョイント式にコンサートを開くのが普通でした。 当時は、主に上流階級のためにコンサートが開かれていたので、聴衆を飽きさせないための工夫でした。 しかし、リストはそんな時代に、ソロでコンサート活動を始め、圧倒的な成功を収めました。
今では普通に使われる「リサイタル」という言葉は、実はリストの独奏会が語源です。当初は、ソリロキー(独白)としていましたが、1840年から「リサイタル」としました。
そんなリストが当時好んでいたピアノは、エラールのピアノでした。 エラールのピアノは、当時、最も完成度の高いピアノでした。同時代のショパンは、音のニュアンスを表現しやすいプレイエルのピアノを好んでいましたが、リストは明快な音が良く響く、エラールのピアノを愛用していました。
しかし、リストの超絶技巧はピアノの限界を超えていました。リストの激しい演奏は、ことごとくピアノの弦を切断し、彼のエネルギッシュな演奏と対峙しながら、生きて帰ってこられるピアノはありませんでした。(そのため、リサイタルには予備のピアノも用意されていた)
そのリストの要求に最初にこたえたのが、ベーゼンドルファーでした。リストはこの頑丈なピアノに喜びましたが、この頃からピアノの評価は、音質だけでなく、コンサートホールの隅々まで響き渡る、大音量の実現も重視されるようになり、この傾向は、スタインウエイの登場によって、さらに決定的なものとなりました。
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